ジャズのルーツは、黒人奴隷たちのワークソングから始まり、ニューオーリンズのラグタイム、ブルース、ゴスペル、ディキシー、ビバップ、ハードバップ、クールジャズ、アーバンガード、フリージャズ、フュージョン、ソウルジャズなど時代と共に変化を遂げてきた。しかし、ここ日本において相変わらずジャズのイメージは、敷居が高いもの、難解な音楽というイメージがある。それを打破した2009年『DOUBLE BOOKED』をリリースしたジャズピアニストロバート・グラスパー。彼はヒップ・ホップというジャンルをものの見事にジャズと融合させ、新世代のジャズミュージシャンのみならず、一般のリスナーにまでジャズを認知させたジャズ界の新ヒーローだ。今回、編集部は、ジャズとヒップ・ホップがいかなる変遷を辿ってきたのかアルバムを紹介しながらジャズとヒップホップの関係性を探っていきたい。
PIONEERS OF JAZZ MEETS HIPHOP ヒップホップ・ミーツ・ジャズの先駆者たち
アメリカの60年代ジャズ。40年代後半、チャーリー・パーカーが創り出したビバップからハードバップ、マイルス・デイビスのクール・ジャズの誕生を迎え、オーネット・コールマンによるフリージャズへと変遷した過渡期である。アメリカ社会は、キング牧師やマルコムX、ブラックパンサー党による公民権運動によりアフリカン・アメリカンたちの人種差別による抗議運動が激化した年でもある。ブラックミュージックについて、それまで白人にRACE MUSIC(レイス・ミュージック)と呼ばれた黒人たちの音楽は、ブルースやドゥーワップから白人のリスナーを取り込むためのブラックミュージックを必要とした。60年代初期にすでにモータウンは白人のリスナーを巻き込むことに成功したレコード・レーベルだがジャズは60年代後半になってよりブラックネス(黒人であること)をアイデンティティにした方向に舵を取っていく。つまり白人に搾取されないクリエイティブな音楽を創作するミュージシャンが現れた。
時を同じくしてニューヨークはハーレムのマーカス・ガーヴィー広場でレコーディングされた『THE LAST POETS』(1970年、ジャズのプロデューサー・アラン・ダグラスにより製作)は、現在のジャズとヒップ・ホップに多大な貢献をしたアルバムである。1968年5月19日、マルコムXの誕生日の日に結成。オリジナルメンバーは、ABIODUN OYEWOLE(アビオドゥン・オイェウォレ)、DAVID NELSON(デイビッド・ネルソン)、GYLAN KAIN(ギラン・ケイン)で、コンガをはじめとしたパーパッションをバックにポエトリー・リーディングをするスタイルだった。アメリカ社会に対する黒人の地位向上を訴え、白人ばかりが優先される世界に対する怒りを詩にしたためた作品に加え、後の作品には、ビバップジャズの要素を取り入れた作品など詩とジャズの相対関係を激動のアメリカ社会に彼らが身を持って実践した。そんなある時、メンバーのオイェウォレはノースカロライナで窃盗罪により4年服役(後にコロンビア大学博士号取得)してしまったことで、解散状態になり、メンバーはそれぞれラスト・ポエッツ名義のアルバムをリリースするが、90年代以降は、ABIODUN OYEWOLE(アビオドゥン・オイェウォレ)、UMAR BIN HASSAN(ウマービンハッサン)、BABA DONN BABATUNDE(ババ・ドン・ババテュンデ)のトリオスタイルで活動している。
時を同じくして詩人AMIRI BARAKA(アミリ・バラカ)は、ビート・ジェネレーションと呼ばれる文学運動に波に乗り、ニューヨークのグレニッジ・ヴィレッジのバーで詩の朗読会に参加していた。そこで詩人アレン・ギンズバーグの推薦により職業詩人として成功していたが、アミリは、マルコムXやキング牧師の暗殺により、黒人であることへのアイデンティティからビート詩人でいることをやめ、本名LEROI JONES(ルロイ・ジョーンズ)をアミリ・バラカに改名し、イスラムに改宗し、ハーレムを中心に黒人の黒人のための芸術復興運動ブラック・アート・ムーヴメントの先頭を切った。
BLACK & BEAUTIFUL SOUL & MADNESS BY AMIRI BARAKA
『 Black And Beautiful/Soul And Madness』は、ラスト・ポエッツと同じくポエトリー・リーディングスタイルで、DOO-WOP(ドゥーワップ)、フリージャズ、リズム&ブルースを取り入れた意欲作である。アミリ・バラカは、代表作『BLUES PEOPLE 』(ブルース・ピープル)を著したジャズ評論家でもあり、2014年1月9日79歳でこの世を去るまで自身の詩、評論、エッセイを精力的に書き続ける傍らジャズミュージシャンと活動を続けた。ヒップ・ホップグループのTHE ROOTS『Phrenology』(フレノロジー)の「Something in the Way of Things (In Town)」で詩を朗読している。
70年代になるとベトナム戦争に対する反戦気運はいっそう高まり、また冷戦下のソ連と宇宙開発による競争が激化した時代でもある。60年代を経験した黒人達は、公共機関における差別がなくなったとしても、特に低所得者地域ゲットーに押し込まれている人々にとっては、定職につけず、また職場における地位も上がらず何も変わらない状態が続いた。このような公民権法以降の黒人社会の様相をあますことなく詩にしたため、また歌にしたのは、GIL SCOTT HERON(ギル・スコット・へロン)だった。
ギル・スコット・ヘロンは、アメリカ南部テネシー州ジャクソン出身。1962年夏以降は、ニューヨークを中心に活動していた。1971年の名盤『Small Talk at 125th & Lenox』は、後のジャズミュージシャンやラッパーたちに大きな影響を与えた作品。
まだ若干20歳のリンカーン大学の学生だった。このアルバムは、当初、彼の理解者であった母親に捧げた詩集として創作されたもの。
母親は、大学を休学して文学の道を志す彼に、あの偉大なアフロ・アメリカン文学者のLANGSTON HUGHES(ラングストン・ヒューズ)のpuch line(ストーリーの決め手となるフレーズ)をまねるよう促すのだった。彼は、ペンシルバニア州のリンカーン大学在学中に、当時ジョン・コルトレーン、アーチー・シェップのような売れっ子ジャズミュージシャンをプロデュースしていたBOB THIELE(ボブ・シール)のオフィスに足を運び売り込んだ。その人物は、あのサンフランシスコを拠点とした文学運動ビート・ジェネレーションの開祖、『オン・ザ・ロード』の著者JACK KEROUAC(ジャック・ケルアック)のスポークン・アルバム(詩の朗読を収録したアルバム)を製作したことがあった。そのため必然的にジャズのエレメントにギル・スコット・へロンの詩を朗読するスタイルとなり、スポークン・ワーズ・アルバムとなった。このアルバムは、全米のラジオ局で放送され、黒いボブ・ディランとも呼ばれた。特に『The Revolution Will Not Be Televised』(革命はテレビ放送されない)は現在においても色褪せる事の無い名曲である。彼の音楽は、たとえば「WE ALMOST LOST DETROIT」が、GANG STARR(ギャングスター)のDJ PREMIER(DJプレミア)のプロダクションでCOMMON(コモン)がラップする「THE PEOPLE」のサンプリングソースとして使用されているし、またTALIB KWELI(タリブ・クウェリ)とDJ HI-TEK(DJハイテック)のヒップ・ホップ・ユニットREFLECTION ETERNAL(リフレクション・エターナル)のアルバム『TRAIN OF THOUGHT』(トレイン・オブ・ソート)でカメオ出演している。
余談話となるがギル・スコット・へロンは、前述のラスト・ポエッツのリーダーABIODUN OYEWOLE(アビオドゥン・オイェウォレ)の従兄弟とリンカーン大学同卒生であり交流もあった。ラスト・ポエッツについて詩とコミュニティに新しい息吹きをもたらしたと自伝で賞賛している。
PART 2に続く