BLACK PANTHER PARTY REVISITED Part 1/WHAT IS BLACK PANTHER PARTY?ブラック・パンサー党とは何か?(その1)

Bobby Seale and Huey P. Newton
Bobby Seale, to the left and Huey P. Newton, who founded Black Panther Party in Oakland, California. image:wikimedia
RACE ISSUE

ブラックパンサー党。多くのマスコミにより過激派武装集団、ヘイトグループ、テロリズムグループ、共産主義グループ等、政府転覆を図る黒人グループとして報道された。しかし一方で、社会の不正に堂々と立ち向かった歴史的事実がある。彼らの社会に立ち向かう行動は、50年以上経過した現在においても多くの市民権運動家に影響を与え続け、歴史に埋もれることなく語り継がれている。本稿では、 彼らの歴史を紹介する。

ボビー・シールは、1962年、カルフォルニア州オークランド市メリット大学の学生だった。黒人の人権闘争に興味を持ったボビーは、学内で行われいている学生討論会をつぶさに観察していた。その討論会はキューバ危機、ソ連との核戦争、そして人種問題などが話題の中心であった。その中で聴衆を黙らしてしまうほどの熱弁を振るう男に釘付けとなったという。

ヒューイ・P・ニュートンだ。

1902年以来、NAACP(全国黒人向上協会)が取り組んだ人種平等に関する市民権法について尋ねると、

「彼らのやってることは時間の無駄だ。黒人には何の利益もないさ」と彼は言う。NAACPは、セグレゲーション(人種分離政策)のおける黒人不平等の解決を白人との協議によって解決しようとしていた。。そのためNAACPの人種撤廃運動は、水と油のようにはじかれ時だけが過ぎてしまうだけだった。ヒューイは、アメリカ建国時の憲法が、白人のための憲法であり、黒人やネイティブ・アメリカのために起草されたものではなかったことを指摘し、いくら黒人の組織が白人の権威者と議論したところで妥協もしくは現状維持にしかならないと考えた。

ヒューイとボビーは、キャンパス内のアフロ・アメリカン・アソシエーションに加入後、図書館で頻繁にミーティングを行い、黒人の社会状況をどうしたら変えられるか語り合う日が続いた。また大学内のの黒人史共同研究機関、黒人講師の雇用促進活動機関、貧困救済センターなど次々に参加し、精力的に活動を行うが、どれもミドル・クラス的な風潮に嫌気がさしてすぐに脱退した。

その後、ボビーとヒューイは、オークランド市の主に黒人の住む低所得者地域を一軒一軒訪問、生活状況を聴いてまわる草の根活動を行なう。子を育てる母親たち、子に食べさせるために懸命に働く父親、無教育の若者たちを見てジョンソン政権下で貧困に喘ぐ人々を肌で感じたのだった。

住民たちの悲痛な声を聞きまわっているうちに、ヒューイが尊敬するマルコムXの「By Any Means Necessary」を引き合いに出し、「自由のための自己防衛と自己鍛錬が、警察や国家権力から黒人を守り、立ち上がるためにはいかなる手段があろうとも自由を勝ち取るべきである」という言葉から自主独立した自衛組織の構想を思い描き、同時に合衆国憲法修正第2条の引用「銃を携えて武装する権利」を行使することで黒人を守る自己防衛方法1つに加えた。

オークランド36万人の町(当時、黒人8万)で、ヒューイとボビーは、暮れやひそかに黒人自治政府を発足させようとした。この壮大な計画は、かつてヨーロッパの植民地で独立を主張する革命政府が、自らをself-determination(自己決定、民族自決)と己の命を顧みることなく叫んだように、400年間虐げられた屈辱と怨恨を覚醒させるための激烈な革命のイデオロギーを、アメリカ黒人の歴史の中へ紡ごうとしていた。

1966年10月15日、 West Oakland(西オークランド) にてBLACK PANTHER PARTY FOR SELF DEFENSE(ブラックパンサー・パーティ・フォー・セルフディフェンス)を設立。56th and Grove Streets in Oakland, California(カルフォルニア州オークランド市56丁目とグローブ通り沿い)に本部を構えた。

To be continued by PART 2