ブラックパンサーパーティは、米国に根づいた人種差別と社会制度の変革のための組織として一躍世間から脚光を浴びた。しかしFBIによりテロ集団と見なされ、破壊工作が実行され、終に終結を迎える。4回目の特集は、彼らの組織崩壊・終焉について紐解いてみよう。
1966年結成以降、ブラックパンサーパーティー(以下、BPP)のメンバーは、オークランド近隣のパトロールをしていた。彼らは、パトカーを追跡し、黒人たちへの暴力行為を警察官が行わせないよう監視していた。万が一、警官が住民に暴行を行えば、ヒューイらは、当時カルフォルニア州で合法的所持を許されるライフルと六法を携えて、「合衆国憲法修正第2条!規律ある民兵は、自由州にとって必要であるから、人民の銃を保持し又は携帯する権利を侵してはならない!」とBill Of Rights(権利章典)を高唱した。合法的権利を主張したため警察は手を出せなかったのだ。
当時のFBI長官J.Edger Hooverは、この事態を重く見てBPPを警戒視し、COINTELPRO(コインテルプロ、1956年開始)呼ばれる極秘操作によってBPPに内部潜入、盗聴を行い組織の瓦解を目的とする破壊工作活動の実行に移そうと企んでいた。実際、BPPを標的にした文書を見ると、「prevent the rise of messiah(救世主の阻止)」、「prevent growth among youth(若者の(BPP)増員を阻止)」、「prevent militant black group from gaining respectability(黒人武装化グループの急進化を阻止)」と記載され、明らかにBPPを標的にしていたことがわかる。
余談だが、2012年BPPの発足当初からのメンバーで日系アメリカ人Richard Aokiについて、ジャーナリストSeth Rosenfeldは、元FBI職員との取材によりリチャードは秘密裏に捜査協力したインフォーマーであったと告白している。しかし、その元FBI職員が証言した時、既にリチャードは自殺により亡くなっていた。奇妙なことに、遺体の傍にはBPPのトレードマークであるレザージャケットが添えてあったという。なお、FBIの機密文書にはインフォーマー(情報提供者)であろう人物名が黒塗りされており真相は闇に葬られたままである。
1967年、黒人青年Denzil Dowellがノースリッチモンドの路上で警察官に射殺されたことを受け、 ニュートン率いるBPPメンバーは武装化し、抗議集会を実行。群集と警察が乱闘騒ぎになる前にヒューイは警察に向かって「自分たちを抑圧する限り武装解除はしない」と宣言する。警察に対抗する彼の堂々たる姿勢によってBPPの評判は一気に広まり、当初数人だったメンバーは、次々と増えていく。
BPPに危機感を抱いたカルフォルニア州議員Don Mulfordは、Gun Control Billの法律改正案を議会に提出。公聴会を5月に開催した。そのため武装化したBPPメンバー30名は、国会議事堂の建物内に入り抗議、その後BPPの創始者の一人、ボビー・シールは6ヶ月の禁固刑となったが、ロサンゼルス、テネシー、ジョージア、ニューヨーク、デトロイトなどBPP支部は拡大した。
一方で警察による取り締まりはますます強化され、些細な車線はみだしでも交通違反として逮捕した。
ある日、警察はヒューイと彼の婚約者の乗車する車を停止させ、違反切符をとるところ銃撃戦が始まり、警察官1人死亡、もう1人は負傷し、ニュートンは腹部に4発弾丸を受けた。彼は殺人罪と誘拐罪で逮捕され、アルマダ郡刑務所に収監された。「ヒューイを釈放せよ!」と世論が高まる中、ジューン・ホンダのよな人種を超えたBPPへの支持が集まった。
そしてBPPは、白人の左派勢力the peace and Freedom Partyと提携する。BPP情報相のエルドリッジ・クリーヴァーが代表に選出された。だがこの提携は、ブラックの社会活動家にとって、黒人のみによる独立組織を望む者が多いため失望した者も多かったという。この出来事により、公民権運動期から活躍していたSNCC(学生非暴力調整委員会)のStokely Carmichael、James Forman、H. Rap Brownは、BPPを統率する主要なメンバーだったが、白人との融和を好まず、完全なる黒人のみの統率力を望んでいたため距離を置いた。
キング牧師暗殺の1968年4月4日の2日後、エルドリッジ・クリーバーとキャサリン・クリーバーは、初期メンバーBobby Huttonが自宅で警察に殺害され、日々露骨になるオークランド警察の嫌がらせが始まる渦中の11月、キャサリンクリーバーとブラジルに亡命、最終的にアルジェリアに留まり社会主義政府との折衝業務についた。
中心メンバーが次々と逮捕、監獄、亡命する中で、本国のBPP支部はほぼ壊滅状態にまで追いやられた。
BPP結成以来の悲惨な事件も起きる。シカゴのBPPメンバーFred Hampton殺害事件だ。就寝中に警察の家宅侵入によりハリネズミのように射殺された。この痛ましい事件は、FBIが極秘計画した襲撃事件であり、コリンテルプロで言うところの「prevent the rise of Messiah」だった。フレッドは標的にされた。白人、黒人、南米人、ネイティブ・アメリカン、アジア人、虐げられたすべての人種が権力に立ち向かうことを説いた、カリスマ的人気を持った将来有望の若い指導者だった。FBIは彼を救世主とみなし殺害したのだ。
その後、ヒューイは過激なBPPメンバーの暗殺未遂事件などの関与の容疑をかけられたため、1973年キューバに亡命した。不在の間、BPP代表は女性のElaine Brown(エレイン・ブラウン)が就任することとなった。
77年ヒューイが帰国すると殺害未遂事件で起訴されるものの、裁判で関与を否認、結果として原告側の虚偽証言により無罪となった。BPPの代表エレインは、党内での女性軽視、セクハラなど男性中心主義的なBPPの側面を見た彼女はBPPを離党した。BPPは指導者不在になり、活動停止状態となった。
ヒューイは、80年、カルフォルニア大学サンタクルーズ校で博士号取得する。アカデミックな立場に身を置くが、一方で1966年以来活動し続けたBPPは、エレインの辞任もあり1983年で終幕となった。
その後のBlack Panther Party
ヒューイは、1989年、25歳のドラッグ・ディーラーによって射殺された。47歳没。殺害動機は、ギャンググループの優位性を世間に誇示するためのもので身勝手なものだった。死後、ヒューイニュートン基金設立。現在もヒューイの残した遺産を継続している。
ボビーは、現在84歳。BPP解散後、若者のためのアドバイザーとして社会活動を支援したり、ブラックヒストリーの教鞭を大学でとるなどBPP活動で得たことを普及させる活動をしている。
David Hillardは、1970年ワシントンDCで開催された奴隷解放宣言式典で、
「奴隷解放宣言後、残酷な奴隷の足かせをつけた黒人たちは自由と解放を勝ち取ったように見えるが、170年後の今も自由を勝ち取ってはいない。自由はどこにうるのか?」
2020年、50年経過した現在においても同じ言葉が続けている。
ALL POWER TO THE PEOPLE!!
果てしない人権闘争はいったいどこまで続くのであろうか?
補足
その後の余波 ブラックライブスマター運動
フロリダ州スタンフォード市で2012年2月26日、17歳の黒人青年トレイヴォン・マーチンはコンビ二へ行く途中、自衛団員ジョージ・ジンマーマンによって射殺され、裁判では無罪判決となった。
この事件は世界規模で波紋が広がった。また続けざまにマイケルブラウン射殺事件、エリックガーナーを窒息させた警官の暴力事件が起こった。全米中に波紋が広がり、2013年7月以降、SNSのハッシュタグblack lives matterが全米各地に普及した。かの創始者 Alicia Garza、Patrisse Cullorsそして Opal Tometiは、2020年現在、世界中のネットワーク包囲網を作り上げている。
2014年ミズーリ州ファーガソンの抗議集会に参加したDeRay Mckessonは、Campaign Zero(2015年)を提唱、警察暴力削減を訴えている。またDREAM DEFENDERの創設者 Phillip Agnew、 Untilfreemを創設したTAMIKA D. MALLORY、LINDA SARSOUR らは、刑事司法制度の変革、不当逮捕、警察暴力への反対運動を指導し、BPPの血脈を受け継ぎ、日々戦いを続けている。